ラース・フォン・トリアー『アンチクライスト』(2009)

 ラース・フォン・トリアー監督の『アンチクライスト』を観た。
 登場人物はほぼ一組の夫婦だけ。情事の最中に息子を転落死で失い精神に異変を来した妻とその妻を献身的に支えようとするセラピストの夫の物語だが、夫婦の絆的な話にはもちろんいかず(この監督だからこう書くのだが)、表題の「アンチクライスト」があらわすような悪魔的なものが映画の時間を支配してゆく作品。
 オープニングは静謐な音楽とモノクロの美しい映像のなか情事にふける夫妻と転落へと向かってゆく息子がスローモーションで映し出される。情事によるエクスタシー(上昇)と息子の転落という絶望的な出来事が重なってしまったところから物語がカオスの中(回転する洗濯機)へと雪崩れ込んでゆくことが示されていると言えるだろう。
 このオープニングと最後のエピローグでのみBGMとして音楽が使われており、あいだの本編では環境音くらいしか響いてこない。カメラ撮影も使い分けられており、手持ちのドキュメンタリーのような映像が短いカット割りで映像を織り成す合間にフィックスで画力のある画面が挿入される。
 この映画はホラー映画とされ暴力的でショッキングなシーンも登場するが、その恐怖とはアンチクライスト=悪魔であり森=自然であり、出所のわからない底無しの本性=宿命だ。キリスト教は太古にそうしたものを克服し征服したかに思えた。ただそれは森への恐れ、魔女への恐れなどの形を撮って噴出してやまないものだった。壁の染みに人の顔を見、森のざわめきに何者かの存在を感じ恐怖を感じてしまうとき、我々は自らの理性の明るさの脆さを知る(この映画はそうした錯覚にも似た映像が効果的に使われているように思う。森のなかに大勢の人の姿を認めたときなどがそうである)。
 同監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観たときはあまりの救いのなさに二回と観たくないと思ったが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がリアリスティックな救いのなさだったとすると、『アンチクライスト』は暗示的なホラーという印象を受けた。