『セーラー服と機関銃』(1981)

 相米慎二監督、薬師丸ひろ子主演の『セーラー服と機関銃』。渡瀬恒彦さんの訃報を聞き、追悼の意を込めて視聴した。
 突然の事故で父を亡くし天涯孤独となった女子校生が組員四人のヤクザ組の組長を引き受けるハメになりあれよあれよという間に薬をめぐる争いに巻き込まれていく。セーラー服(学生)と機関銃(ヤクザ)のアンビバレンツさ、そして少女と母性の両面性を揺れ動きながら、薬師丸ひろ子演じる星泉が成長する物語。
 薬師丸ひろ子というアイドルを主役に据えながらも映像はかなり実験的である。まずは何と言っても印象的な長回し。思わず映画の世界の中へ引きずりこまれそうになる。ロングショットも多用されており、重要な会話の場面も役者は豆粒ほどだったりする。またセットの造形感覚もユニークで薬師丸ひろ子がお寺で十字架に掛けられているのだから驚きである。魚眼レンズが使われたり、音響も随所で加工を加えたりと意欲的に様々な手法に挑んでいる。
 1981年の映画ということででてくる俳優さんが若いな、というのもあるが、なにより昭和の街ってこんなんだったんだなと気づかされる。色んな看板が映り込み(五円居酒屋!)屋台を引くおっちゃんがいる。こういうガチャガチャした街、好きです。
 そしてやっぱり渡瀬恒彦さん、かっこいい。『仁義なき戦い』のかっこいい役者さんがまた一人いなくなるんですね。ご冥福をお祈りします。

ラース・フォン・トリアー『アンチクライスト』(2009)

 ラース・フォン・トリアー監督の『アンチクライスト』を観た。
 登場人物はほぼ一組の夫婦だけ。情事の最中に息子を転落死で失い精神に異変を来した妻とその妻を献身的に支えようとするセラピストの夫の物語だが、夫婦の絆的な話にはもちろんいかず(この監督だからこう書くのだが)、表題の「アンチクライスト」があらわすような悪魔的なものが映画の時間を支配してゆく作品。
 オープニングは静謐な音楽とモノクロの美しい映像のなか情事にふける夫妻と転落へと向かってゆく息子がスローモーションで映し出される。情事によるエクスタシー(上昇)と息子の転落という絶望的な出来事が重なってしまったところから物語がカオスの中(回転する洗濯機)へと雪崩れ込んでゆくことが示されていると言えるだろう。
 このオープニングと最後のエピローグでのみBGMとして音楽が使われており、あいだの本編では環境音くらいしか響いてこない。カメラ撮影も使い分けられており、手持ちのドキュメンタリーのような映像が短いカット割りで映像を織り成す合間にフィックスで画力のある画面が挿入される。
 この映画はホラー映画とされ暴力的でショッキングなシーンも登場するが、その恐怖とはアンチクライスト=悪魔であり森=自然であり、出所のわからない底無しの本性=宿命だ。キリスト教は太古にそうしたものを克服し征服したかに思えた。ただそれは森への恐れ、魔女への恐れなどの形を撮って噴出してやまないものだった。壁の染みに人の顔を見、森のざわめきに何者かの存在を感じ恐怖を感じてしまうとき、我々は自らの理性の明るさの脆さを知る(この映画はそうした錯覚にも似た映像が効果的に使われているように思う。森のなかに大勢の人の姿を認めたときなどがそうである)。
 同監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観たときはあまりの救いのなさに二回と観たくないと思ったが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がリアリスティックな救いのなさだったとすると、『アンチクライスト』は暗示的なホラーという印象を受けた。